佐原&香取を歩く──その1

1月30日(月)、快晴ポカポカ陽気、風が少しつめたいが歩くにはもってこいの半日でした。
ある本を読んでいましたら、「済勝の具」という言葉が出ました。いうまでもなく「健脚」を指します。
「健脚」といえば、伊能忠敬にとどめを刺すでしょう。そこで、千葉県の佐原の町を歩きに行ってきました。ついでに、ちょっとがんばって足を伸ばして、香取神宮にも行ってきました。17581歩でした。
ルートは、

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この「北総の小江戸 水郷 さわら マップ」の助けを借りることにしました。

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自宅から2時間余、3回乗り換え、4つの鉄道を乗り継いで、京成佐原駅に行き、そこから佐原の町歩きスタートです。

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佐原の町歩きのメインは、伊能忠敬ゆかりの地、小野川と町並み保存をぶらぶらとみてまわります。そして、

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香取神社におまいりして、JR香取駅から帰路を取ります。
真冬の月曜日、まして1月の末なので、観光客はまばらもいいとこ(土産屋のおばちゃんの言葉)でした。

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千葉県中山法華経寺あたりを歩く──その6

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法華経寺五重塔です。案内記によると、江戸時代1622年の創建、池上本門寺や上野の寛永寺の五重塔とほぼ同じ高さ(約30メートル)だが、軒の出が少ないので細長く見えるとのことです。昭和55年に修理されてベンガラ塗りがされたと付記されている。わたしが初めてここを訪れたときには、塔のまわりにはフェンスがなかったと記憶している。

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五重塔の足下に『さざれ石』が展示されている。案内板がなければ、あの戦後の焼け跡のあちこちに転がっていた、コンクリートの瓦礫と見間違えるかもしれないような印象だ。とくにわたしの生まれ在所のそばにあった「陸軍兵器工場」の焼け跡にごろごろしていたものとおなじ……。
『さざれ石」とは、例の「……さざれいしの いわをとなりて こけのむすまで」のさざれ石のこと。石灰石が雨水に溶解して、その石灰分を含んだ水が、時には粘着力の強い乳状となって、地下において小石を集結して次第に大きくなり、やがてそれが地上に出て……さされ石巌となる」んだ、と。それがなぜここにあるのかは、わからない。

と、こうするうちに、法華経寺の寺域はあらかた見終わったので、裏手の龍神池を通り越して、目的地の東山魁夷記念館に向かうことに。

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「龍神池」は冬枯れの蓮が哀れっぽさを。やけに強めてしょったれています。「青菱紅蓮」の奉納板がみえますから、その季節であれば色鮮やかなピンクの蓮の花、それに菱がこの池の水面をおおっていることなんでしょう、きっと。

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東山魁夷記念館はたいそうメルヘンチックなたてものでありましたが……

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案の定、やっぱり、そしてざんねんながら休館日でした。そして、不具合を心配したデジタルカメラは、いじわるそうに画像に走査線のような横線をつけてくれました。

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記念館入り口脇のプレートに記されていたメッセージです。歩み入ることはかないませんでしたが、この場から去り行くわたしにしあわせがもたらされることでしょう、期待します。

ってことで、JR下総中山駅から帰路につきました。歩いたのは10351歩でした。毎日夕方散歩とおなじい程度でした。おつかれさまにもなりませんでした。


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千葉県中山法華経寺あたりを歩く──その5

いったん本堂から道を戻って、「日蓮宗大荒行堂」に行きます。

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大勢の方々がなにやら受付の順番を待っているようです。中をうかがおうと思いましたが、ごったがえしていますので、遠くからの写真しか撮れませんでした。たぶん、荒行を申し込んでいるわけではありますまい。

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荒行堂と本殿を結ぶ回廊の途中の門です。ここをくぐって聖教殿へゆきます。

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聖教殿です。かたわらに立っている案内によりますと──
ここ法華経寺には、日蓮の真筆、観心本尊抄、立正安国論など国宝や重要文化財がかずおおくあるので、その完全な保存のために、この聖教殿を昭和六年に建てたそうです。

聖教殿のそばに大きな石碑「戦捷紀念碑」が立っています。写真にはおさめませんでしたが、明治39年の之建の文字があります。日露戦争の戦勝記念碑ということになります。最近読んだ永井荷風をとりあげた本の中にこんな一文があって、すこし気になっていたことをおもいおこしました。それは『日露戦争終結からまだ半年たたぬ内に書かれた「夏の海]で、荷風はフランスから寄贈された「自由の女神像」への賛辞をささげたあと、日露戦争が終わったあと「我国でも東洋を代表する大紀念碑の類を建設する計画を為すものが有るかも知れぬ」と連想し……』とあった文章です。日本の各地に、とくに四国遍路ではあちこちでしょっちゅう、この「戦勝記念碑」を目にします。すでに100年が経過した現在、あるいはこれから、はたしてこうして建てられた戦勝記念碑はどんな意義がるのだろうと、考えてしまいます。まさか、こわしてしまえとはいかないだけに……。

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十三重の塔がありますが、これはなんだろう?の疑問がうかびましたが、通りがかった頭をまるめて作務衣姿のお坊さん(?)にうかがいましたが、「十三重の塔です」とだけ答えてくれました。ですから、これはいったいなんだろうの疑問は解消されませんでした。

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痛みがひどいということで、浄財を募っている釈迦如来座像です。釈迦如来のざぞうです。釈迦の座像ではないのです。

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千葉県中山法華経寺あたりを歩く──その4

まず、中山法華経寺の全体──法華経寺案内図を丸ごと写真におさめました。
これで堂塔伽藍の配置がわかります。

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つづいて、「日蓮宗大本山法華経寺」の由来書きを、同じく写真におさめました。
これで、その歴史やこんにちがわかります。

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文字にして筆記する手間を惜しんでいるのは、なにおか言わんや、デス。でも、写真はほんとベンリです。ついつい、それにしてしまうのはあまりに情報量が多いから、でもあります。

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大師祖堂です。一番おおきな建物で、しかも屋根は瓦葺きではありません。茅葺きでもありません。檜皮葺きかもしれませんが、それにしてはすこし様子がちがいます。はて?

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妙見堂です。さながら墓園の申し込み受付所の様相です。墓参りをサポート(?)しているのかもしれません。気楽にたずねられるようなふんいきではありませんでした。

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法華堂です。法華堂は法華経寺の本堂です。禅宗の建築様式を取り入れています。日蓮宗の仏堂としては最古のものだそうです。

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四足門です。法華堂と同じく禅宗の様式です。

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そして、宇賀神堂です。神社です。ここ法華経寺の守護神を祀っています。つまり、この宇賀神社によってこの法華経寺は護られている、ということです。

ここで、すこし考えてみた。
ヒトは人として生まれたときにお参り、七五三と成長してお参り、そして結婚式、これらはみなおめでたい儀式ですが、すべて神道でおこなわれ、神社のお世話になります。
一方、ヒトが死んだら葬式とか弔いは仏教でおこない、お寺にお世話になる。
なんのことはない、ふつう、わたしたちの一生は、神と仏の両方におせわになっているのです。
カミだ、ホトケだ、とかくべつの意識をおこさずに一生をすごしているのです。
してみると、寺に神社があったらなにか不思議に感じるのはオカシイのかもしれません。神仏混淆、神仏習合……むずかしく考えなくてもいいのでしょう、きっと。


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千葉県中山法華経寺あたりを歩く──その3

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法華経寺仁王門=中山参道山門です。
手前に例の「南無妙法蓮華経」のひげ字の碑が金文字鮮やかに迎えてくれます。

仁王門の扁額はあっさりした文字です。

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「正中山」。ただそれだけです。

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仁王門をくぐると、石畳の参道が伸びています。すぐ左のお寺で「墓苑分譲」の看板と幟が出ています。「一区画139万円」とか。安いor高い? 必要としていませんので、関心がいまいち、デス。

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参道をきょろきょろ見ながら歩いて行きます。なんでもめずらしく思えます。そんな中で、路地の奥にいまにも朽ち果てそうな堂宇がありました。地蔵堂かな、お稲荷さんかな、でも……よくわからないながらも、おもしろい被写体です。

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正面に見えるのは五重の塔です。はーるか昔、ざっと五〇年前にもここへきたことがありますので、半世紀ぶりの再会です。

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赤い欄干の御橋(?)を渡れば寺域です。
赤い、といえば、つねづね疑問に思っていることがあります。ヒノマル=日の丸といえば白地に赤い太陽です。なぜ太陽は赤なのでしょう? 太陽が赤いという表現は、特別な意味がそこにはあるのでしょうか?

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千葉県中山法華経寺あたりを歩く──その2

この門は、千葉県市川市の指定有形文化財です。法華経寺の総門で、全体が黒塗りとなっているため黒門と呼ばれています。建立年代は赤門(仁王門)の創建と同じ江戸時代の初期頃と考えられているそうです。

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黒門の真下からの写真です。正面中央にかかる扁額は、掛川城主太田資順が寛政五年(1793)に書いたもの。扁額全体が彩色されていて、文字は浮き彫りに加工されています。

先日、佐倉市を散歩したときにデジタルカメラをヒョイと落っことしてしまい、それ以来どうも写り具合が心配……。でも、なんとかだましだまし使い続けています。望遠で額の文字を引っ張ってみました。

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『如来滅後 閻浮堤内 本化菩提 初転法輪 法華道場』と読めます。
そうです、中山法華経寺は日蓮宗の荒行修行根本道場であることをあらわしているのでしょう。雄渾な筆致とでもいうのでしょうか。

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さらに進みますと、ずっと先に赤門=仁王門が見えますが、通りの両側のお店などを見ながらゆくと、右手に「清華堂」があります。入り口の案内には、
──石井はなさんから寄贈 石井家が江戸時代の中頃(享保年間1716~36)にここに居住し、近代に入って文房具店を開き、やがて店名を「清華堂」と改め書店を併設した。──
とありますので、ちょっと立ち寄りました。

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庭園の中で園内の様子を撮りました。さして興をそそられることもありませんが、ハナミズキと南天がよく手入れされています。南天の花を、構図に気をつけて撮ってみました。ブログアップの写真は 1MB の制限がありますから、どうしてもまあまあの範囲で妥協して撮ることになります。

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素材がいいのに、こんな程度では……なんて南天さんにしかられそうです。

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千葉県中山法華経寺あたりを歩く──その1

むしょうに旅に出たくなる、そんなとき、気楽にホイと出られれば幸せだけれども、世の中なかなかそうはうまくいかない。いろいろな事情やへんなしがらみにしばられて、自分一人の身が自由にならないのが普通だ。
もんもんとしていると、だんだん不機嫌になっていくのがよくわかる。
旅に出たい気持ちを和らげるには、わたしの場合は、その昔講談社から出た「東山魁夷」豪華版全5冊(むちゃくちゃ高かった!)の画集を見ることにしている。
新年も落ち着いてきた今日このごろ、この本をやっこら引っ張り出して見ていて、フト気がついた。千葉県市川市にたしか「東山魁夷記念館」があるはず……。そしてそれは、中山の法華経寺に近かった……。
よし、その周辺に町歩きに出かけよう、そう決めた。

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これは、東山魁夷記念館周辺案内図。はたしてどんな町歩きになるやら……。電車に乗ってから気がついた──本日は月曜日、ということは東山魁夷記念館は『休館日』かも?

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足は京成線をつかうことにして、帰りはJRにする。京成中山駅は、すこーしローカルな雰囲気をのこしている。

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駅の改札を出ると、すぐに法華経寺山門通り。踏切を渡ってまっすぐにすすめば、法華経寺に行けます。山門通りらしいのは、通りの両側がそれらしいお店がならんでいることかしら。

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通りは生活通りなのでしょう、車の往来が多少あるので、やはり道路の真ん中をあるくわけにはいきません。やがて、法華経寺の山門=総門・黒門に着きます。りっぱな扁額がかかっていますので、ちょっと勉強します……


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千葉県佐倉市──その6

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旧佐倉順天堂の入り口に「千葉県指定史跡」の案内が掲げられています。メモをとってブログの説明に使おうと思いましたが、「これはそっくり全文をださなければいけない」とおもいました。しかし、長文なので面倒になり、「写真に納めてそれをブログに貼り付ければいい」と思いつきました。というわけで、ここに写真を貼り付けた次第です。
*なお、このブログでは「画像をクリックすると記事ページの上に拡大画像が浮かび上がります」。試してください、かなり読みやすくなりますので。

これとは別に、建物の中には「佐倉順天堂」そのものの説明がありました。それはメモしてきました。
──佐倉順天堂は天保14(1843)年に佐藤泰然(たいねん)によって、佐倉本町に創立された。蘭医学塾であり診療所でもあった。「天道に順(したが)う」という意味で「順天堂」の堂号をかかげた。当時の最先端の医学を展開するとともに、その技術を学ぶために全国からの数多くの門人を集めた。明治時代になると、新政府のもとで医学改革をすすめ、明治6年に、のちの順天堂大学に発展する順天堂医院を東京下谷練塀町に開院した──とありました。

展示されている内容は、それほど多くはありません、よほど特別な関心がなければ、わざわざ訪れるひともありますまい。わたしの場合は、つい最近みまかった兄にゆかりがあったのでおとずれたまでです。

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旧佐倉順天堂の右隣には、現在の順天堂医院があります。

これで、佐倉市の町歩きの予定はすべてクリアしました。出発地の京成佐倉駅にもどらないで、せっかくですからもう一つ、最後の佐倉藩主の旧邸宅を見て帰ることにします。

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旧堀田邸は国の重要文化財に指定されています。明治時代のすぐれた和風邸宅としてその庭園とともにのこされています。その庭園からは、帰路のJR佐倉駅へ向かう県道に通じていますから、邸宅の裏手へ回りました。

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真冬の芝生はさびしい……です。

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さくら庭園を突っ切って道を下ると、すぐそばに県道296号線が通っています。JRの駅までは少し歩かなければなりません。

沿道を行きながら、ふと気がついた。今日は1月15日。わたしが子供の頃には、この日が笹おろしの日だった。東京の下町では正月の門ごとの松飾りは、玄関の両脇に葉の付いた丈の高い竹を立てて注連縄(しめなわ)をはった。その松飾りを取り払うのが、1月の15日だった。竹は、どの家でも洗濯干しの、いわゆる竹竿にしたものだったが、こういう行事はいつごろ消えてしまったのだろう、と。

JR佐倉駅入り口のわきでそばの軽食をいただいて、これで本日の町歩きはおわりです。19213歩でした。


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千葉県佐倉市──その5

佐倉の町はどうやら市役所のあるあたりかもしれないと思う。だとすると京成佐倉駅の近所らしい。JR佐倉駅はそれとは外れていると見当をつけました。

ともあれ成田街道に出なければ、今日の町歩きのメイン=佐倉順天堂には行けない。

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「麻賀多神社」に着きました。佐倉市指定史跡です。本殿と社殿は天保14(1843)年造営です。どこかの「歩こう会」の団体さんがぞろぞろ参拝していました。そういえば、私は今年、新年の初参りをしていませんでした。ここで代行いや代参させていただきましょ、氏子ではありませんけど。

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成田街道に出ましたら、高札場が目に飛び込んできました。「太政官」の文字がありますから、明治初期の高札が見本(?)に掛かっていました。なんの布達かは読み取れませんでした。

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成田街道に面して、駿河屋呉服店の古いたたずまいが、佐倉町並情報館として開放されていました。呉服はむろん販売していませんでした。

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やがて成田街道は鍵の手にジグザグに道をとって、「蘭学通り」と命名されて順天堂が近いことを知らせてくれます。

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順天堂医院=佐倉順天堂記念館に着きました。入館料は100円です。わたし一人が入館者です。ゆっくり見て回ります。


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千葉県佐倉市──その4

佐倉城址公園出口の菖蒲園ですが、まだまだ菖蒲さんも冬眠中なのでしょうね、それらしい雰囲気がかすりもしていません。その季節になれば、あの堀切のそれに十分匹敵する見物で賑わうことでしょう。ところで、一つの疑問が生まれました。菖蒲が植えられるのは、畑なのでしょうか、田んぼなのかしら、それとも単に湿地というべきなのかしら?

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城址公園を出てから、佐倉市内中心地に向かいますが、いきなりの急勾配の坂道にでくわしました。半端な勾配ではありません。

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どれくらいの勾配角度なのかしら、実感としては30度以上に思えます。なぜならわたしは、息を切らしながらの登攀になったからです。「体力の低下」とは口が裂けても言いたくありませんけど。

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佐倉市立体育館の駐車場を抜け、無人の大アパート群に「もったいなあ」とグチリながら、左手の竹藪を通ります。「ひよどり坂」です。佐倉サムライの古径の案内看板が立っていました。袴をはき、両刀を差して、ここを通ってゆくのはつらいものがありましょう。

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通称「部家屋敷通り」ですが、正式には宮小路、それも旧鏑木小路が正しいのだとか。この通りに面したところに土手を築いて、その上に生け垣を巡らしたそうです。保存されている旧部家屋敷が3軒軒を連ねていますが、見物料が徴収されますので、わたしはパスです。

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武家屋敷通りを左に折れて、市内の中心地へゆくには、今度は下り坂を行きます。こうして佐倉の町を歩くと、この町はけっこう坂の多い町であることに気づきました。でも、遠景を目にすることが少ないことにも気づかされました。

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