日本めぐり回顧44-4(08.11.19) 8月21日分 網走湖 呼人浦→網走監獄博物館→JR網走駅→網走港→北浜→浜小清水→斜里→朱円→峰浜
JR浜小清水駅からさきの244号斜里国道は、浜辺を走る釧網本線とは離れて内陸を行きます。
止別川を渡ると「右、清里」の標識を目にします。あの長野県佐久の清里を思い浮かべました。その昔、もう50年も前のこと。yac と小海線の線路を歩いて清里に行ったことを。あの時分の清里は何にもなかった。ちょうど、北海道の茫漠とした今いる辺りと変わらなかった。

その清里で「山崎菜園」に入った。知る人ぞ知るお店です。自家農園で馬鈴薯(ジャガイモ)とトウキビを生産している。白い真四角の店で軽食も出している。お目当ては、男爵いも150円(一個半の芋を3個にしてバター付き)とトウキビ(ゆでて150円、焼いて200円)。インターネット販売もしているが「宣伝はしていない」と。でも、ちゃんと宅配伝票がたっぷりと用意されていました。
お店の中ではすでにこの若者たちが食事を終えていました。東京大学陸上競技部/長距離走部員30名余の清里合宿中とか。新春恒例箱根駅伝の、近々行われる予選会突破を目指して意気軒昂の様子でした(後記―残念ながらアウトでした)。
斜里の町はちょこっとした集落でした。ここから国道334号知床国道に入ります。いよいよ知床が間近かになりました。知床市街地には夕方着きそうな気配ですから、郵便局の用事を済ませておくことにしました。朱円簡易郵便局に立ち寄りました。局にはおねえさんが二人いました。局の仕事は二人でまかなえるようです。集配・配達もやるのか聞いておけばよかった。局前のポストには平日2回の集配時刻が出ています。でも建物は簡易郵便局にしては大きい方です。こういうところの局は民営化でどう変わるのでしょうか? さして変えるほどのこともないように思いますが、お上のやることはわかりません。

ふたたび海岸に出るにはアップダウンを繰り返しました。でも手入れのされた農耕地を抜ける道路ですので、それなりの変化を楽しみながら走行しました。海(峰浜漁港)を眼下にして展望レストランがありますが、閉店です。お休みらしいのですが、気分はまるで閉店の印象です。食事ではなしに、お茶でもして温まりたかった。得てしてこんなもんです、楽しみにしながらいざ着いてみると、いつもアテがはずれるんです。
そうそう、バス停がありましたが、停留所名を控えるのを忘れました、失敗です。バス停の向かいで発掘調査をしていました。「オフィネコタン埋蔵文化財緊急発掘調査」の看板です。遺跡の規模も内容もわかりません。どんな埋蔵品があるのかも。さて、そこで浮かんだ疑問があったのですが、あいにく昼食休憩中で、声をかけそびれました。たずねられる雰囲気ではありませんでした。どう表現したらいいのか――原北海道の遺跡発掘なら当然アイヌ文化でしょ、そして縄文にしろ弥生期にしろその意味では日本人の原民族でしょ、ということは原日本人はアイヌでしょ……なんかこの辺の消息はしっかりキッチリされていないようですよネ? わたしの無知、認識不足、不勉強が露呈したかも……ね?
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コメント
縄文時代は1万3000年前から、3000年前まで続いた狩猟を生業とした時代ということになっている。人骨などからアイヌ人に酷似していると書かれている。昔、学校ではそんなことは習わなかった。昔の日本人が縄文、弥生を経てというふうに教わって怪しむことはなかった。
稲を持ってきたのは誰かというのは、かすかに渡来人などと書かれていて、それを当時の日本人が取り入れたように習った。
違うね、全然。
縄文人は間違いなくアイヌだね。
5000年くらい前から、数度にわたって、朝鮮半島、及び南洋からボートピープルが渡来している。それぞれが違った稲を持ってきている。
米にまつわる商売をしてきた関係で、今の日本米はベトナム山岳民族が常食している餅米が源だということは突き止めてある。
ベトナムの山岳民族とマレーシアの山岳民族は同じだから、彼らは当時移動を常としていたように思う。フィリピンにも似たような民族がいるし、台湾には高砂族がいる。沖縄も彼らの仲間だ。彼らは、インドネシアにも入りこみ、旧マレー人と混血している。
朝鮮半島からきた稲は根付かなかったのではないだろうか。
しかし、北方民族は銅器、鉄器を有する戦闘民族だった。権力は結局彼らの手におちた。
縄文時代のアイヌの多くは混血をし、南から北へと征服は続いた。鎌倉時代の終わりに、決着がつき、本州からアイヌはいなくなった。
決定的だったのはやはり、2世紀ごろにきた北方民族の出現だね。朝鮮の百済だか、高麗だか、はたまた高句麗だか知らぬが、その連中は卓越してたんだろうね。わずか200年足らずで今の福島あたりまで征服してしまう。いわゆるヤマト朝廷なるものだ。
5000年前からいた、薩摩、クマソ、出雲などの地域豪族根こそぎだもんね。
やはり、日本の歴史は教科書から書き換えないといけないね。古事記や日本書紀に依存しているのは犯罪だね。
話題になっている、おかしな時代錯誤教科書があるけど、今までほとんど同じ事をやってきているんだから。
投稿: yac | 2008年11月20日 (木) 01時20分
風邪っぴきなのに、ちょっと調子がいいと無茶するもんだからなかなか治らん(涙)ただいま布菌活動に専念中・・・。
オフィネコタンって何だろう??? アイヌ語辞典をネットで引っ張りだしてみた。
「コタン」は集落・人々の住む地域という意味らしい。なるへそ。では、「オフィネ」は? う~ん、アイヌ語って感じしないな、辞書にも載ってなかった。何の意味だろう。とりあえず、見た目通りの何らかの集落の発掘なんだね。たまに発掘の求人あるけど、大変そうだ。古代に夢を馳せる人向きだわ・・。
投稿: マメタロウ | 2008年11月19日 (水) 23時57分
発掘調査は出土品で年代が解るから面白い。
子供の頃に家の近くは遺跡の宝庫、畑をほじくるとよく土器が出た。
先住者(アイヌ)のモノでしょう? アイヌの人達の遺跡からは、神事に使用された木製出土品が貴重なのでは?
日本人のルーツなんて教えたら、神国日本の国体が崩れるから誰も教えないヨ・・ 今でも東北地方、それもかなり南までアイヌ語の地名があります、東北の人と九州の人は骨格と皮膚に違いがあります、宮崎に居た時感じたポリネシア系、北の方はアラスカ先住民に良く似ている(カミサンもかな)、中間地帯が朝鮮系、結局あたしは交雑種?? (+_+)
今見ている写真では緑一面だけど、老拙さんが通過した所は既に雪が舞い始めているのでは..お~サブ~・・・
若者と老拙さんのアクティブな行動力が羨ましい。
投稿: たーぼ | 2008年11月19日 (水) 21時31分