歩いて日本一周

旧東海道を歩く 二宮→小田原宿→国道一号線箱根宮ノ下 その5

さしたる変化もない箱根路ののぼりをアップしていますが、面白くないことは承知しています。
でも、なくなった友とかつていっしょに歩いた思い出にひたっています。残り少ない人生を、避けて通れないふりかえり……。

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行く手に、箱根登山鉄道の出山ガード。箱根登山鉄道は、宮ノ下までのあいだに2度スイッチバックします。これは初めてのそれ。

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わたしの歩きも余裕がなくなってきました。ひーひーハーハーの荒い息づかい、です。片側一車線で、歩道なんてありませんから、ひだりの路肩ぎりぎりを歩くから、追い越して行くクルマに気をとられるのもツライもんです。
頻繁に、大きく右へ左へカーブ、「ローリング禁止」「ドリフトお断り」もむべなるかなデス。暴走行為は困りますが、運転者にとっては、タノシイ坂だろうな……と、この辺は気持ちにゆとり。

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常盤橋そばに、蛙の滝。由来書きには「むかし、この辺に悪い病気がはやった時、この滝の近くに住んでいた蛙が村人の夢まくらに立ち、木かげを作ってくれるなら病気をなおしてあげようと言いました。村人が言うとおりにすると、病気がなおったことから名付けられた……」。メデタシ、めでたし。
でも残念! 蛙はどこにもいません。昔はいたけど、今はいないってことでしょう。

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急勾配のヘアピンカーブのここは、正月の箱根大学駅伝でのぼりのハイライト場面になるところ。軽めにしてきたリュックも、けっこう重く感じられます。ふーふー、ヒーヒーは、いつになったら終るのかしら。

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言いも言ったり、山神神社、山路で事故に遭いませんように、と参拝。

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大平台の温泉街の入り口。人通りがないのは、さびれつつあるのか?
宮ノ下はもうじきだ。

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チャリダーが追い抜いて行きました。一見して、ママチャリ? ンなわけないナ。

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このプレート(道銭徴収所跡)しかないので、実際のかつての状態はわからないが、富士屋ホテルが、明治20年に有料の人力車道を開通させて、道銭をこの付近で徴収した跡、だそうだ。ちなみに富士屋ホテルは、外国人専用がはじまりとのことです。

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宮ノ下温泉に到着。
Yac とあるいた記憶は、この先が飛んでしまっている。
おもいでは、ここで終っているのだ……まったくおもいうかばないノダ。

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正面の富士屋ホテルで、本日の歩きはオシマイ。
いずれ日を改めて、旧東海道で箱根越えをしましょ。

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便利ですね、ラクですね、宮ノ下からバスでJR小田原駅までビューッとくだりました。
3回の四国遍路で、坂道・山道のアップダウンは鍛えられているはずですが、愚痴になりますが、やっぱり年齢ゆえの弱さは十分すぎるほど味わわされました。

歩きデータは 36888歩、25.8キロ でした。

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旧東海道を歩く 二宮→小田原宿→国道一号線箱根宮ノ下 その4

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箱根湯本の観光案内所で、歩きで箱根越えを告げて、箱根路の案内地図をいただきましたが、「国道一号線よりは旧東海道を」と進められました。織り込み済みなので、「ありがとう」と。観光案内所の裏手の「あじさい橋」から国道を写真におさめて、サア出発、ダ!

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箱根湯本の商店街、ごたぶんにもれずお土産屋通りです。

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ヨイショっと、箱根峠越えのスタート点はここから、と勝手に決めました。Yac との同行二人歩きです。

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この先に移転したかつての旭日橋の跡。箱根ではじめて洋風の木橋の吊り橋の架かったところです。やがて、新道の付け替えでお役ご免で……

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旭日橋はここに移って、ここに付け変わって、さらに昭和8年になって、鉄筋コンクリート造りの現在の旭橋に架け替えられたわけです。土木学会選奨土木遺産に選定されています。

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これより塔ノ沢温泉郷、峠らしさはまだ感じられません。

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左手に閉鎖された道は洞門のようなおもかげをとどめています。もとの本道だったのじゃないかしら、たぶんトンネルをぶち抜くほどではないし、かといって側道じゃああぶなっかしいから……とここでも勝手な解釈。

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うしろから「あるきですか?」と声をかけられた。「大手町から京都まで走って行きます」と、40台後半に見えるヒト。四国でマラソン遍路さんに3人あったが、東海道をランする人がいるとはおもってもいませんでした。

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千歳橋、前の土木学会云々の旭橋と同じの鉄筋コンクリート橋です。四国観音寺前の観音寺コンクリート橋を思い出しました。

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たたずまいのよさに魅せられて撮ったのですが、この「福住楼」が昨夜(10月31日)のBSテレビNHK「イッピン」で取り上げられていました。川端康成、大佛次郎の定宿だったそうです。番組ではこの宿の障子が取り上げられていました。わたしが泊まれるような宿ではありません、とても高い宿泊料でしょう……ね。

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渡しが利用するべきなのは、こんなところがふさわしいかも。
「上海温泉大衆浴場」、銭湯なのです。泊はやっていないでしょうけど。

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谷をまたいでいる吊り橋は、谷を渡った先にある「山ノ茶屋」専用です、御用のない方は立ち入り禁止、だとさ。

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さて、さて、どうやらだらだらにさしかかってきたようです。この勾配はまだ怖くはありませんが、やっぱり自転車でのぼるのは、老齢73歳の渡しではダメでしょう、無茶なことをしないでヨカッタよかった!

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左側壁の洞にお地蔵さんが、無事を祈って(勝手解釈)旅人を送ってくれます。よく見ると、この洞(龕かな)は、どうみても鑿〈のみ〉の跡が残っているので、もしかしたら手堀り……。

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箱根路のはじめは、ワケありの橋がつづきます。こんども、谷をまたぐ向こう側の「金竹〈温泉旅館?〉」専用のツリハシ。橋を架け管理する費用を考えると、やっぱりここも宿泊料はさぞかし……でしょうネ、金のない衆生は泊まれないはず。


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旧東海道を歩く 二宮→小田原宿→国道一号線箱根宮ノ下 その3

少し休題──2014年10月31日
昨日カミさんのおこなった施術後点検に付き添い病院に行ってきた。黄斑変性はなかなか厄介な病気、じっくり時をかけて症状の快癒を待つよりなさそうだ。
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さて、旧東海道を歩く 二宮→小田原宿→国道一号線箱根宮ノ下 のつづき。

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伊豆方面と箱根方面へのルート分岐点を過ぎ、道幅も狭くなり、アップダウンも出てきた、早川沿いを歩く。おおきな歌声とボロンボロボロとギターを、練習している(?)青年がいるここは、小田原用水早川取水場。

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蒲鉾の鈴廣本舗。蒲鉾博物館、即売所も併設されている。姪っ子がこの鈴廣会館で結婚式を挙げたのは、かれこれもう35、6年前……すっかりいいお母さんになっている……らしい。

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地球博物館のでかい看板を過ぎて、いよいよ箱根町に入る。

おっと忘れるところでした。恒例のマンホールの蓋……

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小田原のマンホールの蓋の1。小田原城に箱根の山、それに相模川かな酒匂川を渡る輦台にで女性を乗せて渡る衆たちがデザインされている。

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もう一つ、小田原のマンホールの蓋 2。釣りに詳しくないので……魚種は不明だが(鮎かも)、早川、酒匂川あたりの川魚をあしらった、じゃないかナ。

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「山崎の古戦場」あとの標識を見て、「えっ! なぜここが山崎の古戦場なの?」と大いなる疑問。山崎の古戦場は、あの明智光秀、秀吉、勘兵衛のからむ戦地……と、これはわたしの早合点。ここ箱根湯本の山崎では、明治維新前の尊皇攘夷で全国が揺れていたとき、小田原藩の右に揺れ左に流れ勤王の佐幕の、いわば内紛、フラフラした結果、ここで闘ったという、箱根戊辰の役だった場所のことでした。
それよりも目下のナヤミは、工事中があれこれあって、あっち行けこっちに曲がれの迂回指示を歩いてきたら、なんと「あぶない、立ち入り禁止」に出くわした。

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国道側壁の補強工事がずーっとつづいている。たしか、小田急線がこののり面の上をとおっているのではないかしら、よくわからない。地中深くを掘り下げている気配もある。

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早川三枚橋。遠くに箱根湯本駅が見える凍橋を左折すれば、旧東海道を行くことになる。
今日は、あえて覚悟の国道一号線の東海道を歩くので、直進する。

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箱根湯本駅まえは、バス、タクシー、乗用車の洪水、それにこの写真のひだりにたくさんのバス停留所。そしてそこで待つおおくの乗客──すごいです、*@※☆▽#§……なにをしゃっべているのかやたらにおおきな声の人たち。ご多分に漏れず、箱根も外国人でもっている観光地なんでしょうネ。

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旧東海道を歩く 二宮→小田原宿→国道一号線箱根宮ノ下 その2

小田原から箱根へは、Yac(旧友の故石居くん)と55年前に箱根宮ノ下まで歩いてのぼった、なつかしい峠道だ。。
今日は、旧東海道ではなく、あえて国道一号線で、Yac と歩いた道筋をたどるつもりだ。宮ノ下まで歩いたら、いったん戻って、後日、旧街道で箱根路をあらためてのぼろうと思う。なんでそんなしんどいことをするのか……。
それは、Yac とつちかった大事な大事な思い出を思い浮かべたいからだ。ホントは、いっしょにあるきたかったのだ。

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小田原宿絵土口見附一里塚跡。塚の姿はとどめていない。

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小田原宿に入ったとたん、道は片側二車線に広がり、町名がかわるごとに、こんな石柱で「ここは〇〇町」と道しるべが立ち、かんたんな説明で案内してくれる。ちなみにこれは新宿町。唐人町もあるし……道しるべは親切だ。

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でも……青物町の商店街アーケードはご覧の通り、完全なシャッター通り。日本全国到るところで見られる光景。寂しいかぎりです。

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右折すれば小田原城ですが、左折します。小田原城は6~7回は遊びに行っているけれど、そば近くに来てスルーパスははじめて。

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ほどなく直角に右折しますが、そのカギてにあるのが、関東大震災直後に建てられた元網問屋跡の「小田原宿なりわい交流館」。1、2階の軒下の桁〈けた〉が張り出している小田原商家の「出桁造(だしげたづくり)」を見て欲しい。若干逆光でもうしわけないが。

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11月3日は箱根大名行列だそうな。次に旧街道を歩くには、この後にしようか、な。

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街道に沿って「街かど博物館」ののぼりが立つのは、旧家、古い商家、ほかを博物館を模して見学、見物、案内してくれる、街ぐるみの取り組みをあらわしているそうです。

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小田原宿に入ってはじめての蒲鉾屋さん、鈴廣ではなくここは「すずまつ」の蒲鉾でした。

一号線道路を隔てた対面には、

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なんでっしゃろ、このまっしろなお城もどきは……ういろう屋さんでした。力が入りすぎていませんか、シラけてしまいますヨね。

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小田原市街地から、狭い道──まだ国道一号線ですが、このまま真っ直ぐ直進すれば伊豆方面へ行きます。

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このガード下でガードをくぐらず左へ行くと、湯河原、熱海の伊豆方面。ガードをくぐると一号線と旧東海道へ、いわば分岐点。
2010年4月8日、伊豆稲取まで自転車で行ったときに、このガード下でのどの渇きを癒したっけ、とおもいだす。あの日は、厚木の老頭児さんの家に泊まって、厚木→平塚→大磯→国府津→小田原→真鶴→熱海まで、自転車を漕ぎに漕いで走ったんだ。

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箱根登山鉄道板橋駅に着いた。そろそろ、と箱根、はこね、ハコネの名前が身につきだした感じ、だ。

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旧東海道を歩く 二宮→小田原宿→国道一号線箱根宮ノ下 その1

2014年10月28日(火)、JR二宮駅から出発。快晴、暁暗に家を出る。肌寒さをおぼえ、薄手のジャンバーを羽織る。

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二宮駅前ロータリーは、以前自転車で訪れて、バス停のベンチでパンとおにぎりで空腹を癒していたら、どこぞのおばあちゃんがジュースをくれた思い出の場所だ。みじめったらしく思われたのかも知れないが、それにしても……だ。

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しばらくは国道一号線を進むと、川のない梅沢川にかかる梅沢橋に。かつては橋の下に流れがあったのかも知れぬが、いまは窪地の道路になっているだけ。

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「旧東海道の名残り」の標識が三又に立ち、左奥に旧街道が延びている。

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二宮の一里塚、いまふうに作り替えたのでしょう。風情がない。

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松屋本陣跡だが、まさかこんなにせまっ苦しかったのではあるまいな、昔は。時は過ぎ、時代は変わり、次々に代替わりして、地所は切り売りされて、いつしか……といったらイケナイのかしら。

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旧街道も、ふたたびこの坂下で国道一号線で合流。
今朝JRの車内から右手にくっきり見えた富士山。今日は霊峰を仰ぎながら歩けるとおもったのに、どうやら空振りになりそう。遠くを見晴らしてもダメでした。

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ちょっと蒸し暑くなってきたのが、中村川の押切橋あたり。日差しが強くなりそうだ。押切という地名は古くから使われたらしく、あちこちで見かけることになる。

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とやかくするうちに「小田原市」に入り、どれくらいの時間で箱根口にたどり着けるか、はやくも時間を計算しだす。あわてておいおい、あわてない、急がない、ゆったりたのしみながら、の歩きだったはずじゃないか!」と、もう一人のわたしのお叱り。

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なにやら……??? の光景。なんだろう?? そばに行ったらわかりました。なんのことはない、廃屋ならぬ廃蔵でした。

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国道一号線に沿って西湘バイパス、海を隔てて箱根の山々が見えてきた。写真に海をもっと入れたいのだが、ふさわしい場所がない、一丁前な口をきくようだが、ホントにそうおもった。

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国府津駅は一号道路から少ーし奥まっているので、恒例のJR駅表敬訪問はパス。

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森戸川に親木橋、盛戸も親木も最前の押切とおなじ古くからの地名、と説明されています。事実、森戸はひんぴんと目にした。写真の右奥にみえる歩道橋はかなり大きく、エッチラオッチラのぼるのに苦労しそうなので、かまわずに車道を渡ってしまった。いーけないんだ、イケナイんだの声は聞こえなかった。ごめんね、デス。

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成田山の別院で、酒匂不動尊、おまいりして歩道橋無視をお詫びさせていただく。

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いわくのありそうな「連歌橋」。はて、連歌を冠する橋の由来を知りたいのに、どこにも説明になりそうなモノはありません。ちかくの「ヨークマート」に足を運んでもわかりませんでした。
そこで二人の「茅ヶ崎からの日帰りで、箱根のススキ原」を見に行くチャリダーに会いました。「スッゲー高ーいフランスの自転車」に乗っていました。若いのにお金持ちなんですって。

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酒匂川を渡り、「息子が小さいときに、この河原であそんだなあ」と、しばし茫々の彼方をしのびました。

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ガラリと道路の様子が変わって、小田原宿に入りました。

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旧東海道を歩く 戸塚宿→藤沢宿→平塚宿→大磯宿→二宮 その3

わたしが大磯を歩いた翌日の10月25の朝日新聞土曜Beに、「自由学校」の特集で大磯のあれこれが紹介されていた(後述)。「まるで、わたしの歩きをなぞっている」と、半分はおどろき、半分はことの偶然にこころを打たれた。

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鴫立庵をでるとすぐに、「左折すれば太平洋岸自転車道」の案内。今回は歩いて旧東海道なので、スルーして国道一号線。

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さっき「なんだ、標識だけじゃないか」と不満をおぼえた案内棒が、絵図で案内されていた京上方見附の標識。
なるほど、こんな状態であったのか、これだったら、なにもありやぁしないじゃないかと思ったのは、間違っていた、と納得、ごめんなさいデス。

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松並木がつづきます、日陰によろこんで歩き続けます。
以前、この街道を自転車で通ったとき、あるお父さんとここで会いました。東海道を歩き通すのだ、といっていましたが、わたしも歩くことになるとは、そのときはツユ思いもしなかった。日本橋からあるいて三日目と言っていたから、今のわたしと同じペースだったのですネ。

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大磯の海岸は、明治のころに海水浴場が開かれたそうな、この路地の先に「こゆるぎの浜」がそれのひとつ。

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伊藤博文の別荘「滄浪閣」の跡地、駐車場の姿とは寂しいが、ずーっと海岸まで(いまは西湘バイパス)の広さだった、と。別荘のオモカゲはなにもない。

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物騒なネーミングの「血洗川」、はて? と通り過ぎるのみ。

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へエー、こんな休憩用の東屋もあるんだ、と感謝しながらひと休み。腰掛けがすこし気に入らないけど……。

大磯は、とりわけこのあたりは、明治以後の名士たちの別荘が並んでいたという、徳川、山内、山県、沖、大隈、西園寺、池田などのお歴々のが……。

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その数多い別荘跡群の中のひとつ、一号線をまたいで両側に展開する「大磯城山公園」の左側「旧吉田茂邸地区」に立ち寄ることにした。多少見学に時間がかかるだろうことを覚悟して。年末年始をのぞいて毎日開場所、入場無料。

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入ってすぐに、吉田茂の愛した花のバラ園。

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京の裏千家の表門の写しと言われる兜門。カブトに似ているところから名付けられた、と。

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池泉回遊式の庭園が広がっている。夕日なので明るさが足りず、シャープさに欠けてしまった。

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そして、3年前に焼失した「吉田茂私邸あと」。ことしから来年にかけて再建されるとのことで、すでに公園の一画にそれのための支度がはじめられていた。

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太平洋に向かっての吉田茂像。
この銅像のすぐ真後ろに6基の女名前の墓標があったけれど、いったいこの人たちは、とハテナ? でした。ただあるだけの墓標で、ただその場所の手入れは
しっかりされているから、よけいに不審でした。
園発行のパンフには「サンフランシスコに向いて立つ吉田茂像」と記されているが、なにもそこまで……ですよね、むしろ──

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「ワンマン道路を見下ろして」のほうがいい、とおもうけどなぁ。

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広い園内をじっくり見ていたら、どれだけ時間があってもキリがないので、いいかげんで切り上げました。葛川にかかる塩海橋では、日もだいぶ傾いてきました。小田原まで行くのはやめた方がよさそうです。

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JR二宮駅から帰宅することにしました。

寄り道見学含めて 47657歩、約33.3キロ歩きました。

そうそう、各地のマンホールの蓋を、とリクエストされました──脚下照顧、足元をきちんと心がけて歩きなさいよ、とアドバイスされたと受け取ります、ありがたいことです。

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藤沢の蓋

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茅ヶ崎の蓋

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大磯の蓋 Ver.1

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大磯の蓋 Ver.2

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二宮の蓋

でした。

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旧東海道を歩く 戸塚宿→藤沢宿→平塚宿→大磯宿→二宮 その2

藤沢の遊行寺に参拝した折りに、たしか芭蕉の句碑が日本の到るところにあるのは、時宗の影響もある、とかつて物の本で読んだことを思い出したが、そのくわしい内容は忘れてしまった。「一遍上人絵伝」だったか、「一遍聖」という書名か、どうも記憶がよみがえらない──それとも大岡信と尾形仂との対談本……

時宗のやりかたを取り入れ、芭蕉の句碑を建て、年季供養をする芭蕉没後の主として関西の蕉門の人たちのいきさつだったけれど……云々。

さて、茅ヶ崎の一里塚は国道一号線交差点にあり、

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交差点は地下道で渡るようになっているが、茅ヶ崎駅方面へも通じている。
ドリンクバーでノドの乾きを休めたいし、ついでに軽くランチも取ろうとこの階段を上った。

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国道一号線が旧東海道、やむなく車の流れに沿って歩き、千の川にかかる鳥井戸橋の橋詰めに「左富士」の碑。東海道を京に上るとき、富士山はいつも右手に見えるのだが、ここは左手にみえるめずらしい場所で名所になっているのだそうだ。左どころか、この上天気なのに、まるで見えないのはどういうわけなんでしょ。

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湘南バイパスの手前に、ヌーッと立っているこの丸太ン棒、相模川の橋脚という由緒のあるもの。ゆるーい弓なりに反っているのは、なぜなんだ? わたしはそれが知りたい!

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相模川は馬入橋を歩いて越える。わたしンちの近くの荒川にかかる船堀橋は都内で一番長い橋(これはホントの話で、わたしもおどろいている)だが、ながさではやはりこの橋にはかなわない。

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渡りきった橋をおりた道路端に「陸軍架橋記念碑」。関東大震災で馬入橋は落ちてしまい、渡船で代行したものの、渡れないことがしばしば。そこで、陸軍が出動して、450メートルの架橋工事、10月3日に完成、その事蹟をたたえています。

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国道一号線は平塚市街地をかすって行きますが、旧東海道は市街地を通り抜けるので、ここ馬入の一里塚跡でしばらくお別れです。塚に当たるモノはなにもないので、石碑がおいてあります。

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JR平塚駅を表敬訪問。どこへいっても同じ風景です。らしさがなにもないですナ。

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「平塚の塚」も「京方見附」も碑が立っているだけです。せめて、これこれだったんです、ぐらいのことが記されていればなぁ、とおもうのはわたしだけかしら?

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これより大磯ですが、若干アツクなってきました。ドリンクバーでたらふく水分を摂ったつもりだが、水分は思ったほどには一度にとれませんネ、腹がガバガバするだけで──。

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金目川にかかる花水橋、右手にこんもりと見えるまん丸い山は高麗山だ。
高麗の王族が住んだとも言われていた。また、曾我兄弟の仇討ちの十郎に死に別れた虎御前が庵をむすんだ山とも。いまや、五郎・十郎の仇討ちなんていわれてもなァ、って困るひとがふつーかもしれない。

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新島襄終焉の地と標識があるけど、NHKの「八重の桜」がとうに終っているから、一時ほどにはたずねてくる人もいないそうな。そんなもんなんだ。

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ご当地ナンバーの湘南の熱気はもう冷えたのかなぁ……
「湘南発祥の地」を見つけた。この大磯の地が中国湖南省の洞庭湖のほとりの湘南と似ていることからよばれるようになったらしい。

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そして、知る人ぞ知る「鴫立庵〈しぎたつあん〉」に立ち寄ることに。

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むかし西行法師がこのあたりの海岸で「こころなき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮れ」と歌を残した。その沢はどこなのか確定できないが、ふるい伝承をもとにここに鴫立庵を設けた、とのこと。

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京都の落柿舎、滋賀の無名庵とならぶ日本三大俳諧道場と鴫立庵。句会が開かれていたので、道場も庵の中も見ることはできませんでした。100円の入場料ですが、庭園もキレイに整備されています。ただ、やたらに句碑や墓標などの石碑が所狭しと並んでいるのは、興ざめのタネになります。どうしてこうやたらに句碑を建てたがるんでしょうか?
遊行と連衆と句碑……やはり、もう一度勉強する必要を感じました。

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句碑などが入らないアングルで撮りました、へそまがりだなあ、と思われたくありませんけど……。

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障子のなかでは句会の最中です、おおかた御婦人連がたくさん居並んでいることでしょう、ドコモ同じです。
ステイタス化している俳句、結社……芭蕉が「俳諧は老年のもの」といったことばを、とくとかみしめて正しく受け取りたいものデス。

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旧東海道を歩く 戸塚宿→藤沢宿→平塚宿→大磯宿→二宮 その1

すでに書いた、芭蕉のことば「東海道の一筋知らぬ人、わが俳諧におぼつかなし」という言葉について考えた。それは旅の体験の有無とか、地理に通じることをいうのではなく、よく世態人情に通じている、さまざまな人間の生活をよく知るとか、それを通して人間としてよく練れるとか、そういうことを言うのではないだろうか、と。歩きながら、さらによーくかんがえよう。

さて、旧東海道歩きの三日目──10月24日(金)はJR戸塚駅からスタート。

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出勤ラッシュの皆さんとあわただしくすれ違いながら、しばらくは国道一号線の歩きデス。
最初に、沢邊本陣跡に行き当たりました。戸塚宿には二つの本陣がありましたが、ここはそのひとつ、なぜ沢邊本陣跡の案内があるのかは、それこそ旅をしているといろいろなところでゆきあう「明治天皇の行在所」を示す石碑があることで、納得できました。

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八坂神社に足を止めました。「お札まき」という習俗が行われる神社だからです。なんでも、無病息災を祈って7月の祭礼で、町内の男どもが女装して、渋団扇を打ちながらお札をたくさん中天にまきながら古ーい踊るそうな。いちどは見てみたいモノですナ。

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ここらアタリでは、どうやら今年は、柿の生り年のようです。カミさんの親戚からのたよりでは、「今年はまるで、かきはとれません。期待はずれで、ごめんなさい」と。毎年愉しみにしている干し柿は賞味ないのは、残念……

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旧東海道権太坂についで、二番目の難所、長ーい坂がつづく、戸塚の坂──「大坂」には初っぱなからマイッタ! 国道一号線と並行して歩いて、峠の上では富士山が見えるんだ、と期待していたが、ごらんのように、今日はみえない。

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ちょこっと国道からはずれた旧道に「お軽勘平戸塚山中道行きの場」の碑。例の歌舞伎 仮名手本忠臣蔵にちなんでたてられたものだ。もう、昔ほどにはお軽勘平をしっている人はいなくなったのではあるまいか、そう思う。

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また国道に出て、一見してふつうの民家の庭かと見まがうのは、原宿の一里塚あと。このさきに道の反対側に長い参道と古い社殿の浅間神社があるのだけれど、往来の激しい国道を渡らなければならないので、パスしちゃいました。

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もやもやー~、と、なんねんぶりにご対面しました。ソット握りしめると、痛いようなくすぐったいような、ふしぎな感じがうれしーい。

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ここから旧街道は、ちょくちょく松並木が途切れがちながらもつづきます。そのはじめが、ここ藤沢宿の松並木から始まることが案内されていました。
昭和三十年代に日本全国をおそったマツクイムシの食害にあって、多くが倒壊したとのこと、それにもめげず、新たに植樹を施して、なんとか往時の松並木を復興させてき凧とが記されています。

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藤沢で有名なのは、遊行僧一遍上人が創建した「遊行寺」。わたしのぜひ訪れたい場所のひとつでもあります。一遍上人の生まれた四国道後温泉うらの宝厳寺はかつてたずねたし、修行された岩屋寺へもお参りした。残るは南無阿弥陀仏の名号札を配る機縁になった熊野のゆかりの地だけになった。紀伊半島巡りの折りに行ってみようと思っている。

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一遍上人像に手をあわせてたのちに、あらためて境内を見て回り、一遍さんのその生涯──信じることをやりきった力に思いをはせました。

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21℃を示している街頭ポールを見上げながら、これくらいが歩くのには適しているな、暑くもなく寒くもなく……多少の汗をかくのはやむをえない、そうひとりごとをぶつぶつ、デス。メルシャンワインの工場が、まあ綺麗な秋空にうかんでいるようです。

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道ばたに、ちっちゃなほこら。なかに道祖神が、おとこ、おんな、ともにお顔は真っ白なおしろいが。──「おしゃれ地蔵」という。女性の願い事なら、なんでもかなえてくださり、満願のあかつきには、白粉を塗ってお礼をする」と伝えられ……形態的には道祖神だが、土地の言い伝えでは地蔵様、といわれている。

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ひたすら歩くだけになってしまった。相模線をまたいで、街道をさらに進む。

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茅ヶ崎の一里塚、ここで左折すればJR茅ヶ崎駅だ。
さて、このさき歩くだけなら今日は小田原宿まで行けるかな、そんな気持ちの余裕が生まれている。足にまめもできないし、ザックも重くはないし、だいいち足の具合がすこぶる良い。ハリも痛みもそのカケラも感じない。いうならば、絶好調なのだ。
ただし、どこでどういう寄り道や滞留をするかはそのとき、その場対応なので、あの「予定はかわる」になるやも知れず、なのだ。

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旧東海道を歩く 川崎宿→神奈川宿→保土ヶ谷宿→戸塚宿 その2

先回の歩きの後半で両足裏に違和感をおぼえたのは、やはりマメの芽が水泡を持ったためだった。針でつついただけでは水泡が消えないので、カッターナイフで少し皮膚を切って、バンドエイドをはりつけておいた。四国遍路でおぼえた対処法が役立ったようだ、とここまでは順調に歩いてきた。

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横浜宿から保土ヶ谷宿への道順はわかりにくかった。横浜駅西口をめざして歩き、国道一号線へ行かないように注意しながら、おそるおそる進んだ。このステンレススチール板に「旧東海道 保土ヶ谷宿歴史の道」と打ち抜いた案内を見たときには、ホント安心した。また、かたわらには、

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こんなプレートも道ばたに設置されていたので、保土ヶ谷宿にいることを念押しされたよう……。ありがたかった。

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このあたりに高札場があったと案内が立っているが、その隣の立て看板の保土ヶ谷税務署は、じつはもと問屋場〈といやば〉の跡のはずなのだが……。
どうやら保土ヶ谷宿の中央に来たと言うことになる。

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直進するとまもなく国道一号線と合流する。そのすぐ前で、JR東海道本線の踏切に行き会った。しばらく列車の通過待ちで、アクエリアスで渇きを癒やす。にしても、近頃の列車はなんでこんなに車両をつなげてながくするんだろう?

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国道一号線に行き会ったら、そこは保土ヶ谷宿本陣跡。そのすぐとなりに、

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旅籠屋の金子屋跡の建物、むろん跡地であって現在はふつうの家でした。
国道一号線に沿って歩くのはいやだなぁ、なんて去年一号線を自転車で走り抜けたこともわすれたような、わがままが口からぽろりと出ました──

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それでも、一号線の歩道左側に保土ヶ谷一里塚がキレイに整備されていた。
一里塚でベンチに腰掛け、ひと休み、マメの心配は払拭された、やれやれよかったヨカッタです。

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一里塚の先は、今井川の川沿いに松並木がつづき、国道のうるささをシャットアウトしているかのよう。名付けて「松並木プロムナード」という。

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国道一号線とわかれて再び旧街道に出たら、なんだか足の運びがおもくなったよう。片側一車線の車道も狭いが、歩道も極端に狭くなっている。向こうから来る人とすれちがうのに、どちらかがやりすごさなければ通れない。保土ヶ谷宿もまもなく終わりだ。
エッチラオッチラのぼって行くと、ふと目をあげたら……ここは権太坂〈ごんたざか〉でした。京へ向かう江戸からの東海道の一番目の難所でありました。
道理で足が重くなったのだ。ダラダラつづく上り坂は、これからまだ1.3キロもつづく──なかなかキツイだろうな!

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権太坂で、条件さえよければ富士山が見えるらしいが、さっぱりその気配もない。そうこうするうちに、戸塚区に入り、戸塚宿にまもなく着ける。

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なんの樹木か一目でわかるヒトは、あまりいらっしゃらないだろう……モチノキ。
益田家のモチノキと、かなりの有名木らしいです。道から一段高い場所に生い茂っているから、かなり威圧感があります。

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上ばかり見ないで下を見たら、こんなマンホールの蓋が、彩り鮮やかに埋め込まれている。
たしかに、そうなんだ、新春恒例の大学対抗箱根駅伝のコースなんだって気がついた。

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権太坂からは、なーんもありません、ってな感じで、いつしかJR戸塚駅に着いてしまった。
弥次さん喜多さんの「東海道中膝栗毛」によると、かれらはここ戸塚宿で第一夜は泊まっている。江戸から戸塚宿までは10里半、当時の男は一日10里が行程だったと言われているから、江戸を出たら一日目はここまで歩いたのだ!!
えっ信じらんなーい!ですが、なに足弱のよぼろ年取った老人のわたしは、二日がかりであるいたとおもえばいいのだろう。ご苦労さんでした。

JR戸塚駅から帰宅です。ブーラブラあるいて、トータル35828歩でした。

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旧東海道を歩く 川崎宿→神奈川宿→保土ヶ谷宿→戸塚宿 その1

2014年10月22日(月) 旧東海道を歩く─2日目

松尾芭蕉の弟子・土芳の『三冊子』に、「東海道の一すぢもしらぬ人、風雅に覚束なし」とある。それを受けてか山本健吉は「東海道の一筋ぐらい知っていることが蕉風連衆としての資格……」という。
わたしは、このことでポンと背中をたたかれて東海道を歩く決心をしたのだ。
年内に歩き切ることを一応のメドとするけれど、途中でなにがあるかワカラナイ。
また、冬の奈良に出かけたいおもいもある。昨年についでの奈良再訪だ。
あまり期限を切ることにこだわらないで、東海道を歩くつもりだ。

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川崎宿八丁畷からの出発(京浜急行で品川から直行)だが、今日はピーカンの日和だ。たぶん暑い中をあるくのだろうな。

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並木に植えられているカリン〉が実を付けている。最初にカリンを目にした木曽路のある寺では、天に向かって実は結んでいたのに驚いた記憶がある。このカリンは地に向かってなっている。種類が違うのかしら。

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市場の一里塚は、小さな稲荷社が祀ってあり、それらしく樹木も枝を伸ばしている。「いちゝばし」の碑が立っている。

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鶴見川にかかるつるみばしを渡る。水は汚れ、ガチガチに固められた味気ない川だ。橋を渡った左手に、横浜港を開港したとき警備のために設けられたという「鶴見橋関門旧蹟」の碑文がある。どんな関門なのか説明がないのでわからない。

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ゆるくカーブする道を進み、京急の鶴見駅に着いたが、念のために(なんの念だか?)JR鶴見駅に立ち寄ってみた。この頃新しくなる駅はどこでも同じ顔をしている。白い建物=駅ビルの前にバス発着のロータリー「その地らしさの駅」はどんどんなくなってしまっている。

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いったん国道に出てから、間〈あい〉宿の生麦でふたたび旧東海道に戻ると、あらまぁ、魚屋さんがずらーっと軒を連ねている。魚河岸通りで、80軒ほどとか。キップのよさそうな魚屋の大将とすっかり話し込んでしまった。ついこぼれた愚痴が、「近所に魚屋さんがないわたしンちは、スーパーの魚介でませている。この辺のヒトは、うらやましいかぎりだ」。なんて言っちまいました……。

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道念稲荷。なんでも、蛇も蚊も、という行事が残っていると案内が出ている。約300年前悪疫が流行したとき、萱でつくったおおきな蛇体に悪霊を封じ込め、海に流したという。「蛇も蚊も出たけ、日和の雨け、出たけ、出たけ」と唱えながら蛇体を担いで町内を回ったそうな。六月第一日曜日の年中行事。

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突如、頭上に覆い被さってきたのは、生麦と港北を結ぶ横浜環状北線の高架道路工事(この言い方にはトゲがある)。

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生麦事件の碑が、ここに立っているけれど、実際の事件のあった現場は、ここではない、らしい。なぜなら、わたしの手持ち地図では、この先の国道と合流する手前左側なのに。事件の跡と事件の碑とは別のところにある、ということらしく、なんともまごらわしい、こまっちゃうなデス。──その後、歩けども行けども事件の跡地は見つからなかった。見落としたのか?

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また国道一号線にぶつかった。いやだなとおおきくまがった道なりに行くと、麒麟=KIRIN=キリンビールの工場があった。原則予約制だが、予約がなくてもあいていれば9時30分から見学できる。一時間半ですべての行程を案内してもらえる。そして、30分の無料試飲もコースにはいっていて、無料だって。でもアルコールを受け付けないわたしには、まったく興味が動かないのです。

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国道に出たら、あとは標識や案内などの「旧東海道」をしめすものは何もありません。だんだんむしむししてきた日差しの下、黙々と歩き続けです。
だから、いま自分が旧東海道を歩いているのかもわからなくなりそうな、半分心許ない状態になってきました。
でも考えてみると、ここは「横浜 ヨコハマ」なのだ、むかしの「よこはま」ではないのだ。神奈川宿に入っていることがわかればそれでいいじゃないか。

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